柿木先生は矍鑠(かくしゃく)として
今回の同窓会に参加くださった先生3名。
2組の宮沢先生、4組の茅野先生、6組の長沼先生
7名おられた先生方も既に3名の先生が鬼籍に入られている。
今回いらして下さったのは、
5組柿木先生
3組清水先生
7組高見先生
1組の中村新平先生は体調が優れずに欠席された。
あの頃は、先生方は大人だったので年齢差がだいぶあると
思っていたが、実際は私達とは十数歳しか違わなかったのだ。
清水先生、高見先生はまだ70歳代。
少しご病気なところもあるが、まだまだ長生きをしていただきたい。
その中で柿木先生は84歳。
自分達の父親、母親世代と同じ。
だが、矍鑠とされており、ボケてないし、
足元もふらつかない。
ご立派だ。
私は5組で、3年間担任をしていただいた。
5組には何かルールの違反をすると『罰』というものが下された。
ここでも何度か書いているが
グランド10周が一番ポピュラーな罰だった。
そんな罰の話も三次会で盛り上がった。
今なら、大問題になるであろう
手が出る 殴る
そんなのも日常茶飯事だったというクラスもあった。
女子にまでその「手」は下ったようだ。
柿木先生は、そうした「手」はあまり出なかったが、
数度それに見舞われた生徒もいた。
そのシーンは今でも目に焼き付いている・・・・・・。
突然想い出したけれど三次会での話題。
小学校の時、スケートしていて転んで記憶喪失になった山下先生。
あの後、学組は学級疎開をして、他のクラスに散り散りになり
3か月ほど山下先生は治療をしていた。
転んだスケートリンクはどこそこだったとか、
山下先生の住んでいた場所は学校の坂の途中だったとか
という想い出話しでも盛り上がった。
話を元に戻そう。
先生というのは、いつになっても先生だ。
教科を教えてもらうのはもちろんのこと、
人生のこと、生き方のこと、考え方まで教えてもらったような気がする。
「先生のその考え方 間違っている」と、
思うことですら、教えだったと思う。
柿木先生の口癖は
「大物になれんよ。」
だった。
同級生の中に一人、いつもそう言われていた子がいて
しまいには「俺は大物になれなくていい!」と
先生に反発していた。
私もどちらかというと そちら側の人間で、
いつも先生に反抗ばかりしていた。
『罰』なんていうやり方が大嫌いで、
そういうちからで人を抑えるという考え方が嫌だった。
だけれど、罰をくらうようなことをしていた自分がそもそもいけないんだけどね。
そこまで考えの足りない自己中な私は
生活記録帳に先生のやり方に反対 ということを書き、
それに対してまた怒られ、罰をくらった。
そうした鬱屈した毎日が何らかの影響をおよぼし、
今の私を形成したのではと思う。
その時の生活記録帳は全部実家にある。
成績表まである。
そこに先生のコメントが書かれているが
今読むと さもありなん的なことが書いてある。
先生方、いつまでもお元気でいてください。
そしてまた一緒に校歌を歌いましょう!
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