2023年09月09日

2組 同級会首都圏支部

みんな元気にしてますか。2組の北原です。
我々の多くが65歳を迎え、退職する人も多いのではないかと思います。

今月完全に退職し、東京を離れ名古屋に戻る中山を囲み、飯島と3人で2組の同級会を行いました。今後、中山は伊那保育園の園長として、割と高い頻度で伊那に行くようです。大学で教えることにもなるとのこと。Mr.宮澤先生はじめ、あの頃の先生方が聞いたら”あの問題児が教育‼”なんて、卒倒しちゃうんじゃないかなぁ。

船木さん、ブログなのに投稿を許してくれてありがとうございます。このブログは、楽しかった伊那中で一緒に過ごしたみんなと繋がる唯一の場所。みんな、体に気を付けて。





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Posted by KK2Kumi at 13:00 Comments( 0 ) 同級会

2019年11月03日

うしおでローメン同級会

 昨日土曜日に伊那の「うしお」で同級生の集まりがあった。

この一つ前の記事に登場した5組の石本くんの呼びかけで集まった。
場所は伊那の通町にあるローメンで有名な「うしお」。


お店の前には席空き待ちの人達。
お店の中は人で溢れかえっている。

うしおってこんな人気店だった?!

石本くんが予約してくれていたおかげで私達は奥の座敷へ。
昨夜集まったのは
5組石本くん、金子さん、倉田さん、細井さん、私。
4組のマーチンの尾針くん
計6名の会。

うしおは石本くんが常連のお店。
メニューの中に「ムチャ盛り」というローメンのメニューがあり、
それを頼んだ。

プロレスラーのグレートムチャ選手がここうしおに来店した際に
依頼して、命名したメニューらしい。



お皿の大きさ、盛りの高さでその量をわかってもらえるか?
昔から「超大盛り」「超々大盛り」というメニューがあったのは知っていたが
この「ムチャ盛り」というのは初めての経験。

しかし、6人であらかた食べてしまい、残った分はお持ち帰り。
他にも「モツ煮込み」も柔らかく、臭みも全く無く、美味しかった。

こういう老舗はいつまでも残ってもらいたい。
伊那のソウル・フードだ。

石本くんは来年もソフトボールクラブで全国大会を目指すようだ。
既に来年に向けて練習が始まったようだ。
だがしかし、相当練習はキツイらしい。

「もう監督は俺らを高校生だと思っている。
高校野球のような厳しい練習だ~」
と嘆いていた。
相当にからだがキツく、石本くんの場合、股関節が悲鳴をあげているらしい。

もう来年で辞めたい・・・・
と言っていた。
全国大会に出場できるほどのチーム
練習もそれなりの厳しさでないとそこまでは行けないだろう。

でも、からだも大事。
そこらへんは自分で自分のからだと相談しながら決めるしかない。
しかし、万年スポーツマンだ。
中学生の頃から野球は上手かった。

昨夜も「石くんは中3の時、下級生の女子にモテモテだったよね。」
「いつも教室に下級生女子が尋ねてきてキャーキャー言って鬱陶しかった。」
と言われていた。

石本くんこの時が人生最大の「モテ期」だったようだ。

二次会ではこのモテ石くん
両手に花状態。
(彼曰く 「枯れ木も山のにぎわい」なんだとよ)
両手に枯れ木 らしい。



6月の同窓会には試合があって参加はできなかった石本くん。
早く次の同窓会をやろうよ、と尾針くんに言っていた。

次は幹事長は尾針くんなので、尾針くんの腹づもりで決まる。
が、ここ2~3年のうちに ということは無いだろう・・・・・・

じゃ、5組の同級会をやりたい ということで
4組の同級会と5組の同級会を合同でやろうよ、という話が持ち上がった。
そうした同級会レベルならばできそうだ。
柿木先生がお元気なうちに というのもある。

石くんのソフトボール・シーズンが終わっての話になると思う。
来年の10月か11月くらいかな?


私は約10ヶ月ぶりの伊那での飲み会。
久しぶりの金子さん、倉田さんにも会えて嬉しかったです。
(細井さん、マーチン、尾針くんとは同窓会で会えたので)

12月忘年会 またやりましょうか。
その時はどんなメンバーで会いましょうか。



Posted by みなと at 16:20 Comments( 0 ) 同級会

2019年07月31日

皆 集まれ~!


 5組同窓生・石本くんは、今でもソフトボールの現役選手で
シニアソフト県大会で優勝したりしている。



その彼がお盆に皆で「飲もう!」と呼びかけている。

野球部にいた彼。
LINEでは、当時の選手話で盛り上がったりしている。
原文由くん。(7組)
皆さん、覚えているだろうか?

前橋町のお銭湯の息子さんだった。
私も幼稚園から小学校1年生まで八幡町に住んでいたので、
家にお風呂がなかったので、よく通った。

お父さん、お母さんのこともよく覚えている。

原くんは野球部では、すごい選手だったらしい。

石本くんも当時ショートを守って、素晴らしい活躍をしたそうだ。


そんな部活動の話で盛り上がるのも楽しいね。


ということで、
皆さんへお知らせです。

日時: 8月17日18:00~
場所: しみずや
参加する方は、しみずやさんへ直接連絡してください。

しみずやさん
0265-72-5007
牧田くん(6組)のお店です。


召集している私は参加ができません・・・・・・(ごめん)
今、区の三役・会計の仕事をしていて、
この日は区の会議が夜に開催され
そちらに出席せねばなのです。

8月11日にはお墓掃除に伊那に行くんですけどね。
残念です。

でも、皆さんは生ビール&焼肉で盛り上がってくださいね~!!!
また報告お待ちしてます。




2019年07月24日

高校野球で盛り上がった


 今週の日曜日 夏
高校野球・長野県大会決勝

伊那弥生ヶ丘高校vs飯山高校

結果は、飯山が延長の末、サヨナラで勝った。
伊那弥生ヶ丘高校は我が母校。
そのころは女子高だったから、野球部なんてなかった。

だから高校野球とは言っても、自分とはあまり関係の無い世界
せいぜい高校生の頃に東海大相模の原選手が
松本にやってきて、松商と試合して
それを観戦に行ったくらい。
(しっかりミーハーしてたじゃんか!!) ^^

この日、伊那中学校のLINE仲間の皆さんと試合中
盛り上がった。

もちろん、高校の同級生達とも別グループで盛り上がっていた。

中学同窓生とは高校は違うんだけれど、同じ伊那の高校。
馴染みも多かろう、
もしかしたらお子さんが通っていたかも?
ということで無理矢理一緒に応援してもらった。

6回の弥生の攻撃の際には、「いける!」と
一人、興奮していた。

もしあのまま勝っていたら甲子園に応援に行っていただろうか・・・・・?

そんな異様な興奮をもたらしてくれた高校野球。

後輩くんたち、よく頑張った。
残念だったけれど、県大会で決勝まで進むなんて
快挙だよ。

今も弥生は女子学生の数の方が多いと聞いた。
ちょっと男子生徒達は肩身の狭い思いをしているのかな?

試合後、一人でビールで残念会をした。
もし私が伊那に住んでいたら伊那の街へ繰り出していただろう。
一緒に感動を分かち合えなくてちょっと寂しかった。

もうすぐお盆
お墓掃除&お墓参りに伊那へ行く。




2019年03月24日

お彼岸日和でした


 3月24日(日) 春のお彼岸ということで、伊那までお墓参りに
母とダンナとで行ってきました。

朝は冷え込んで寒かったのですが、日中は日差しも暖かく
お墓参り日和になりました。

お墓のある場所は、水神橋を渡った中央区側
小高い丘の上にあります。

父が亡くなった際に建てたもので、このお墓には
父しか入っていません。

伊那に来るのも久しぶり。昨年末以来です。
皆さんも伊那に実家があったり、お墓があったりすると
帰郷するでしょうが、やはり足遠くなっちゃいますよね。

母も86歳。
友達が伊那市にいるので、その方のお宅に寄り、
母の元気そうな顔を見てもらいました。

皆さん、本当にお元気そうでなによりです。
昭和一桁生まれの人達が一番長生きで、元気な気がします。

これ以降、どんどん日本人の平均寿命は短くなってゆくような気がします。
贅沢したり、食生活が豊かになって栄養を取り過ぎだったり、
ストレスがあったりで
昭和一桁の人達をピークに、また寿命は縮まるような気がします。

私達が老人になった時、今ほど85歳なんていう数字は出そうにない気がします。

私達が小さい頃は、チクロとか人工甘味料なんて騒がれて
からだによくないものが多かったからねえ~・・・・。
長生きできるはずがない!


季節はようやく春。
花々が一斉に芽吹き、咲き出します。
梅は咲き出しましたね。
遅い信州の春もようやくやってきました。

またぞろ、飲みたい心が騒ぎだします。
もう少し暖かくなったら、伊那へ繰り出そう~!





2019年03月10日

牛伏寺で厄落とし


 2月25日に松本の牛伏寺に厄落としに行ってきました。

この牛伏寺、中学校の時にバス見学で行った。
境内に牛の銅像があった。



本願の日は1月15日。
それから1カ月以上も経って、しかも月曜日の平日。
厄落としをする人もそんなにいないかな~?と行ってみると
11時半からの回にお願いしたのは なんと、私一人!

広い本堂の中で私一人だけのために
お坊さん達二人もお祈りしてくれている。

私のためだけに祈ってれている。
厄落とし一人用の祈願代金7000也なんだけれど、
なんだかすごく得した気分。



護摩を焚き、炎が天井にまで上る。

私の厄、天に登れ~!!

60歳で一応、厄はおしまいらしい。
しかし、それは人生60年くらいの時の話。
今は平均寿命80年以上。
あとの20数年、厄災は無いのだろうか?
もう少し延長したほうが良いような気がする。

まあ、60歳の厄払いはできたわけ。
今年一年は無事に過ごせるかな?

皆さんも厄払い しっかりしたほうがいいですよ。
健康も神・仏頼みです。



2019年02月04日

昭和34年にあったこと


 先月お誕生日を迎えたことをお伝えしたが、
私が生まれた昭和34年。
この年に何が起きたのか?

その前に
私の父親は外国航路の船員をしており、その関係で
海のそばの方が会いやすい ということで、母は長野県から
名古屋に居を移して住んでいた。

そこで私が生まれた。
昭和34年の1月に生まれ、その年の9月に伊勢湾台風が襲来した。
伊勢湾名づけられたように、名古屋は大被害を受けた。





母が住んでいたのは、名古屋市港区。
まさに海の近く。
そこの2階建てアパートに住んでいた。

ここからは母から聞いた話。

夜になり、雨風が激しくなり、窓ガラスは枠ごとはずれ吹き飛び、
雨は叩きつけるように部屋の中に吹き付けた。
2階建てアパートの2階に母と生後8ヶ月の私。

雨は夜半になっても止まず、激しさを増してゆく。
アパートの1階は天井まで浸水。
1階の住民も全て2階に避難してきた。
2階の入り口まで水が来たそうだ。

朝になり、ようやく雨は上がったが、水は引かず
見動きのとれない状態。

ミルクも与えられない状態で私は泣き叫んでいる。

そこへ、1艘の手漕ぎボートが来た。
母を心配した近くの牛乳屋さんのおじさんが様子を見に来てくれたのだ。
それも、牛乳を持って。

ようやく助かった母と私。

伊勢湾台風被害に遭い、その対策として建てられた県営住宅に移り住んだ。
それは小牧にあった。
そこで私は小学校上がる前まで過ごした。



こう聞くと、よくもまあ乳飲み子を抱えた母一人
伊勢湾台風の中、生き延びることができたもんだと思う。

しかし、今度は父親は昭和56年9月。
奄美大島沖にて乗務していた貨物船が台風に遭い、
甲板を巡回していた時に大波が船を襲い、
甲板に叩きつけられ、亡くなってしまった。

波乱万丈過ぎる一家だわ。

今は天下泰平。
いろいろな人の助けにより、60年生きてきました~。




2019年02月01日

還暦だよ とうとう・・・・・

 早生まれの私は、昨年の同窓会開催時はまだ59歳だった。
なんとなく、皆が60歳になった~!と言っていたので自分も既に60歳になったような
気がしていた。
なんとなく半年 損しちゃった感じ。

1月30日にお誕生日を迎えました。

小学校入学時は席順や並び順が生まれ順だった。
生まれてからまだ7年、6年の子供にとって
4月生まれの子と3月生まれの子では約1年間の差がある。

その頃の「1年間の差」は大きい。

1年生の時の4月生まれの子達がなんと大人に見えたことか!
頭脳のほうも、体力の方も上回っていた。

その差は大きくなるにつれてだんだんと埋まっていったのだが、
その時のお勉強できない感は後々まで尾を引いていたような気がする。

私も例に漏れず、早生まれの晩生(おくて)だったので、
やはり小学校低学年の頃はお勉強はあまりできなかった。
からだも小さく、運動もそんなにできなかった。
(足は速かったけど)

小学校入学の時の隣の席はマーチンだった。
あの頃、男の子は半ズボンに白いタイツを履いていた。
マーチンもそんな姿だった。

机は木製の二人がけで、天板を持ち上げて中に入れるようになっていた。
その机の右端に白い紙に毛筆で「船木 由佳」と名前が書かれていた。
黒板には、にゅうがくおめでとう と書かれ、花紙で作られた色とりどりの花が
飾られていた。

1月生まれだったので、一番窓側の列。
4月生まれの子達は、北側の廊下側の列。
1番最初が唐澤Sくんで、次が北原Hくん。
1年生ながら、二人とも絵がうまくて、県の児童画展に入選していた。

今となると、早生まれの方が得したような気がする。
1年分若いように思う。

あ、いけない!
今年は女性の厄年だったんだ。
まだ厄落としに行ってない。
早く行かなくちゃ。


この写真は自分の方のブログにも載せたもの。
昭和40年頃の伊那市・八幡町。
伊那北駅の交差点から国道沿線北側に向かった風景。
まだ歩道もできていない。

もう少し手前に電気屋があり、名古屋から引越してきて、そこに住んでいた。
(叔父さんのお店だった)



もう54年も経ったんだね。



Posted by みなと at 14:55 Comments( 2 ) 幹事のつぶやき

2018年12月27日

同窓会幹事長のカミングアウト


 よく質問されることがある。
「何故、中学の同窓会をやろうと思ったの?」

その答えは同窓会でもお話させていただいた。
(が、酔っ払ってたし、話がうまくなく、あんまり伝わらなかったかなあ・・・・)

要約すると、
もしタイムマシンで戻れるとしたら中学時代に戻りたいと思うくらい
大事な3年間だったから。
そんな大事な時を共有した皆と会いたかったから。

話したことはなくても、記憶の片隅には同じ学年の人達全員が
存在していて、大事な記憶はその全員で作り上げていたから。


最初に「同窓会をやりたい!」と思ったとき、
どうやったらできるか雲をつかむような 何もわからない状態だった。

ようやく各クラスの幹事の人達に声をかけ、
集まってもらうことが出来、
なんとなく目鼻がたち、第1回目の幹事会を開催した。

とはいえ、同窓会のノウハウは誰も知らなかった。
本当にできるのか?
幹事の全員が真っ暗なトンネルを歩いているような感じだった。

私は、「絶対に実現するゾ」という半ば執念のような気持ちで
幹事の皆さんを引っ張っていた。

私が不安になったら、皆も不安になってしまう。
とにかく私が「やる!」「できる!」と信じて
その気持ちを幹事の皆さんに信じてもらうしかなかった。

その気持ちは誰よりも強かったように思う。


もう一つ、実現できた理由。
それは私が「デザイナー」という仕事をしていたから。

と、聞くと「何の関係があるの?」と思うだろう。
デザインって、絵を描いたり、モノの形状を作ったりすることでしょ?
そう思うのが普通。

私がやってきたデザインの仕事。
そうしたこともやってきた。
それと同時に、
「人を心地よくする」
「使いやすくする」とはどういうことか?ということを考え続けてきた。

美しい形状だけでなく、デザインとはそうしたことのほうが重視されている。



私は、こうしたデザインの考え方を同窓会に活かせると思った。

『懐かしい』という気持ちを皆に呼び起こし、
『会いたい』という気持ちになってもらう。

そして、いかに参加した人達が満足してもらえるか?



私が具体的にやったこととは。

まず、同窓会の招待状&参加確認ハガキ。
普通は、いついつに どこそこで 同窓会を開催します。
参加しますか?しませんか?
というお知らせが届きます。

私はそれをリーフレット形式にし、
スローガンを作り、
とにかく情報をてんこ盛りにし、
「行きたい」という気持ちを皆さんに醸成しようと仕掛けたのだった。

懐かしさの演出だ。

当日、参加してくれた人にはパンフレットを作成し、
懐かしい中学時代の写真を載せた。

懐かしさのこれでもか!の上乗せ演出だ。
そして、スライドショー。



これらの演出・プロデュースはデザインという仕事をしていたからこそ
できたと思っている。


これと同じことをやらせてもらったのが
弥生が丘高校の同窓会。
その一部始終をやはりブログに書いている。

「デザインのちから の巻」

興味がある方は覗いてみてくださいな。

生意気なような、鼻持ちならない自慢のような気がして
あまり言わないようにしていたけれど、
そんな裏もあったのよ、ともう済んだ今だからもう話してもいいかなと、
言っちゃいました~!

でもね、あくまでも「演出」でしかない。
各クラスの幹事さん達の頑張りや
皆さんの「行きたい」「会いたい」の気持ちあってこそと思っている。



次の同窓会は幹事長が交代する。
また次は全く違った色の同窓会になると思う。
皆さんもそんな違いを楽しみにしていて下さいね。




Posted by みなと at 17:50 Comments( 0 ) 幹事のつぶやき

2018年12月26日

三つ子の魂 百まで

 私が「伊那保育園」出身ということはここでも何度か書いている。

先日の6組同級会でも伊那保育園出身者が何名かいた。
小川くんと中村くんだ。

その時の印象に残っているエピソードがある。
年長さんは2組に別れていた。
「川組」と「山組」

私は「川組」に所属していた。
山組の方には、保育園の息子だった中山くんや、中村くん、小川くん、湯田くん、
大庭くん、白石さん達がいた。

どちらかと言うと川組よりも山組の方が元気が良かった。

お昼寝が終わり、さあ帰りの時間という時に
教室から退出する際に山組の男子4名くらいが
一列渋滞になり、歩きながら
「オ~、スッザンッナ、泣くんじゃね~!!」
と歌いながら腕を振り上げ、行進してゆく姿を覚えている。

その中にいたのが中村くん(サポ)であった。

私はサポとはサポが新町、私が双葉町という非常に近い場所に
住んでいたので小学校時代もクラスは違ったが
よく見知っていた。

保育園時代の徒党を組んでのし歩いていたサポの印象が強く、
どうしても私の中のサポ像は
「近寄りがたい怖い人」 という感じだった。

中学時代は花形バスケ部だったので、よけいに近寄りがたさは
強まっていったと思う。


それがこの会で一気に距離が縮まった。

そして、私の「サポイメージ」は大きく旋回した。
なんとなく近寄りがたかったイメージだったのが

『なんて【人たらし】な奴なんだ!』

人たらしと言うと、女たらしと表現されるように
あまりいい意味には使われない。
人をだましたりという意味に使われているが、
私はこと「人たらし」という言い方をする時は
褒め言葉に使っている。

例えば、豊臣秀吉。
彼がその「人たらし」であったと言われている。

人心掌握するのがとってもうまい人
のことをそう称したりする。

私はサポがこの「人たらし」だ、と感じた。

まず、人の心を逸らさない話術・話題。
人を傷付けない心配り。
自分のことをさらけ出し、相手の心を開かせる。

そんなことがサラッとできる人 と思った。

オ~、スザンナがよくぞここまで・・・・・と感心した。


同窓会
今まで自分が思っていたイメージと全く違う別の顔が見れる
楽しさ・驚きがある。





まんまの顔してるね。
やんちゃで、いたずら好きで、きかん坊だったんだろう。

他の子達も変わらん!
この頃からもう55年も経っているのにね。



Posted by みなと at 10:53 Comments( 0 ) 懐かし話